「いや~いきなり変な紙を見せてすまなかったね。ある種のテストだったんだ」
便宜上、「手毛林」と名乗ったこの奇妙な男には何かを知っていそうな雰囲気があった。
「そして、私の直観は正しかったわけだ。null坊くん、きみは私と同じく、この『事態』を重く見ている」
「この『事態』……ウイルスのことですよね」
「やっぱり、きみもこれをウイルスだと思っているんだね? 」
「ウイルスですよね。違うんですか? 」
間違ってはいない、と手毛林さんは言い、こう続けた。
「確かに我々から見ればウイルスのようなふるまいをする。でも、実はそのウイルスには更なる正体があって、それが異次元から来た謎の存在なんだ。仮に『暗黒大臣』とでもしておこうか」
「はあ」
「私は暗黒大臣に対抗するために日夜修行を重ねている。君が独自研究で導き出した通り、支離滅裂・ナンセンス・役割なしの言動が暗黒大臣に対する牽制になる。特に、ナンセンスな文章を詠唱することの効果は絶大だ」
「へえ」
「いうなれば我々はレジスタンス。孤独なレジスタンスということになる」
「話は分かりましたが、でも、なんで手毛林さんはそんなことを知ってるんです? 」
「なんでって言われてもなー。なんか、分かるとしか」
変な人だと思う。
「ともかく、独自研究でここまで調べ上げたのか。null坊くん、かなりすごいよ。きみは救世主となり得る……」
彼はひとしきり感慨深い顔をした後、ポケットから何かを取り出した。
「null坊くんに渡しておくものがある。『ナンセンスカウンター』だ」
素直にそれを受け取る。携帯ゲーム機くらいのサイズの長方形の物体で、中央に自動車の速度メーターのような針と目盛りがついている。目盛りには0から105までの数字があり、100のところから盤面の色が赤くなっている。言葉にしてみると平々凡々な見た目だが、手にすると変な感じがする、というか、妙な違和感がある。やけに「それらしい」ような気がしてくるのだ。
「これ、どこで手に入れたんですか? 」
「ん? 拾った? いや違うな、作った? うーん、どっちだっけ。ともかく、使い方は簡単だよ」
そんなことどうでもいいでしょ、と言いながら彼は手帳を広げ、何やらメモを取り始めた。「特殊アイテム入手」がどうとか見えた気がするが、何だろう。彼なりのナンセンスなんだろうか。やはり変な人である、と思う。
「で、これをどうやって使うんですか? 」
「ただその辺に置いておく。目の届くところに置いておく。そうすると、数字が表示される。今は12を指している。ここでたとえば、あ~~雲ひとつない体育館にオストラキスモスの夏、来てほしぃ~~」
「おお、数字が42になりましたね」
「そう、私が言ったナンセンスな文章に反応したのだ。来るべき暗黒大臣との戦いでもきっと役に立つだろう」
「そうですか。まあ、ありがとうございます」
「じゃあ、明日から修行を始めよう」
「えっ、修行……ですか」
「そう、修行。君のナンセンス力を鍛える」
手毛林さんはまたしても手帳を取り出して、何か言っている。
「修行パート、導入完了っと。ええやんけ。ええやんけ、ええやんけ」
そうして、ぼくと手毛林さんの修行の日々が始まったのだった。
○訓練メニュー1:意味のない会話を可能な限り継続させる。
「今日はどんな感じなされますか~」
「転んだ裸の男の肌に着いた砂の模様がとある地域の田園の分布を具に明らかにするみたいな感じでお願いします。めちゃくちゃ小さい声で」
「かしこまりました~。じゃあ、行ってらっしゃい!ピアノプレイヤーに気をつけてね。あと蕎麦忘れないようにしなさいよ~」
「泣きました。そういうつもりで言ったんじゃないのに。私は昨日の小学校の出来事があまりにもペダンティックだったから、腕の表面に生える毛を丁寧に痛がっていただけなのに」
*街の雑踏の中、ナンセンスカウンターはまずまずの50を指している。
歩行者がこちらに怪訝な顔を向ける。殴りかかってきそうな気がしたので、ぼくと手毛林さんは大急ぎでその場を後にした。
「手毛林さん、何も街なかでこんなことする必要ないんじゃないですか」
「甘いな。きみは甘い!暗黒大臣はそんなに甘くないぞ!」
心なしか、周りの空気が冷えたような気配があった。
○訓練メニュー2:特定の形式を用い、それとミスマッチな内容の文章を作る。内容を壊して、形式だけ続ける。
次は 二ヶ峰三兆堀
*満員電車、優先座席付近でナンセンスカウンターは素晴らしく79を指している。
乗客に好奇の目を向けられたぼくたちは、次の駅で降りた。
「わざわざ電車の中で意味不明なことを言わなくても……」
「null坊くん、あのサァ……きみ本当に暗黒大臣に勝つ気あるの? 」
「いやだって……」
降り際、車内の電光掲示板の表示が、奇妙にちらついた気がした。
○訓練メニュー3:それっぽい表現方法を使いながらとにかく長めに唱え続けてみる(手毛林さんはこれを「詠唱」と呼んでいるらしい)。
カラッと晴れた夏の日。度重なる「聖なるトマト茶漬け」に辟易としながらも広い広い住宅地を修道女の姿で練り歩いていたあの頃。私はまだ貧乏で、一卵性の卒塔婆はもちろん咽頭だった。彼女は意味もなく長い尾を直立させていたのだが、同時に呆れかえるほどの笑顔をフリフリふりまいているのが私としてはずいぶん気になった。今でもまざまざと思い出すことができる。僅かな瞬間、微かに浮かんだ哀れみの表情の粘度を。その瞬間にすべてのアスファルトから蒸発する小便の熱を!
*児童公園の片隅でナンセンスカウンターは驚異の93を指している。
ぼくが児童公園の片隅で、詠唱を終えた後、砂場で局所的に砂嵐が起こり、水飲み場の蛇口は、マイクロフォンのような、いや、マイクロフォンそのものに変化していた。幸い子供が巻き込まれることはなかったが、保護者らの視線が痛かったので、ぼくたちはすぐさま公園を後にした。
「詠唱で現実が改変されている? 」
「そうだ。ナンセンスの濃度が高ければ、現実が改変する。美容室の時はただ殴られそうになり、気温が若干下がっただけだったが、電車の時は電光掲示板の表示がおかしなことになった。そして、今回は砂嵐、そして蛇口からマイクへのメタモルフォーゼだ」
「なんでそんなことがあり得るんです? 」
「密度の高いナンセンスに世界が耐え切れず、歪み始めるんだ。そういう雰囲気だと思う、たぶん」
彼はいつものように手帳に何か書き込んでいる。覗き込むと「79で電光掲示板のちらつき」「93で局所的な気象変化、メタモルフォーゼ」「次は100超えで大演出か!?」と書いてある。
そして満面の笑みを浮かべながら、ちらりとこちらを見てひとり呟いた。
「そろそろカウンター100超えるっぽい雰囲気出てきたでこれ! 暗黒大臣出てくるで! 完璧な展開やん! 素敵やん!」
暗黒大臣――手毛林さんがPVウイルスの裏にいると言っていた存在だ。
「もうすぐ、暗黒大臣が現れるんですか? 」
「ああ。カウンターがある数値を超えると、こちらに姿を現すはずだ」
手毛林さんはなぜか遠くを眺めながら自信たっぷりに言った。まるで、台本を読んでいるかのように。
*
修行を始めてから、3ヶ月が経っていた。
手毛林さんが、部屋の隅にナンセンスカウンターを置く。畳の上に、ゲーム機みたいな長方形が佇む。針はまだ、ぼんやり12のあたりで落ち着いている。
「じゃ、いこうか、null坊くん」
手毛林さんが見守る中、ぼくはひっそりと目を閉じ、唱える――
庭? 庭に埋まった獣脚類の化石? 哺乳類型爬虫類? おれには哺乳類型爬虫類と獣脚類の違いが分からない。蜥蜴のデカいバージョンにプラスアルファの特徴が数点。背骨っぽい何かが拡張したような何か。この大きな大きな有機物の扇だけで、おれはひたすら猛暑を耐えようとしていた。無理があった。 おれだって獣脚類のフォロワーだ。そんなおれが獣脚類の一部を使って歴史的な夏のアツさをしのいでいる。これは屈辱的なことなんだ、獣脚類にとっては。 おれにとっては、やりたいことでもある。キミだってそうだ。キミだって、獣脚類のフォロワーなんだ。キミが何と言おうと、それだけは変わらないんだ…… 何があっても、それは変わらない事なんだ……
ナンセンスカウンターの針が音もなく動く。
90、95、99……
赤地の境目の手前で一瞬だけ躊躇った針は、次の瞬間、「チン!」という安っぽい音とともに、その境目を越えた。
自室で修業をしていたぼくたちは、驚愕した。カウンターは101を指していた。
「手毛林さん、やりましたね!」
手毛林さんは返事をしなかった。立ち上がり、窓の外を見ている。いつもと変わらぬ住宅地の光景。いや、何かいかにもそれっぽい曇天に覆われているような気配がある。
「……来るぞ」
「え? 」
「暗黒大臣だ。暗黒大臣が、我々の元に姿を現す」
手毛林さんは手帳を開いた。開き慣れたページだった。紙の端に、赤い付箋が貼ってある。「100↑」と書いてある。
「予定通り。100超で特大イベント。null坊くんの驚き、恐怖、そして決意……ええ感じやんけ!」
「手毛林さん、何を――」
彼は一瞬、こちらをちらりと見た。まるで、ぼくの反応を確かめるように。
「と、言っているうちにほら。やってきた。暗黒大臣が」
それは唐突だった。