広い体育館に円形に配置されたパイプ椅子が十三脚。空調設備の低い音だけが聞こえている。
司会役がぼくを紹介する。いけ好かない奴だ。
「えー、新しく参加した人にも話してもらいましょう、null坊さん、どうぞ。『null坊』というハンドルネームで、なんかw こうw 『活動』されている方だそうです(苦笑)」
「……あ、null坊と申します。こんにちは」
「こんにちは」
参加者一同が不気味なほど大きな声で食い気味に挨拶を返す。
ぼくは戸惑いを覚える。やはりここでも感染は拡大しているらしい。正気でこのような挨拶をできる人などいない。この人たちは間違いなく、感染している。そして重症だ。
「null坊、じゃあさっそく、悩みを共有してくれるかな?」
「あ、はい。えーーーー。こういう会に参加するのは初めてなので緊張しています。えーじゃあ、早速わたしの悩みを……わたしはアニメを見るのが趣味なんですが、さいきん見るのがつらくなってきまして。えー身体的にも精神的にも。これがなかなか深刻でして、結局一日中天井を眺めているだけになるんですよね」
まずはこの程度で出方を伺う。いまここにおいて重要なのは、こういった交流会のシチュエーションに乗らないことだ。ここでアルコールがやめられないとか、対人関係に悩んでいるとか口走ったら、おしまいだ。ぼくが言った「アニメ視聴に関する悩み」はナンセンスではないし、悩みとしての意味は通る。が、こういう場で発表する悩みとしてはズレている。とりあえず様子見だ。
沈黙が数秒続いた後、戸惑いを隠しきれない司会役が苦笑しながら周りの参加者に目くばせする。
「null坊……それは……大変だったね。みんなはどう思うかな?」
「ちょっといいかな?」
「なんだいダン?」
ダンと呼ばれた参加者が慎重に言葉を選んでぼくに言う。
「……null坊、キミの問題は、私が思うに……さほど深刻ではない」
深刻ではない? そりゃそうだ。お前らの方が深刻だ。こんなふうにしか話せなくなっている。グループワークのシチュエーションに合った役割を演じ切っている。この人たちはもうダメだ。完全に脳をPVウイルスに犯されている。
「というか、グループワークに来て解決するものじゃないし、キミにはもっとやるべきことがあるはずだ。違うか? 正直言って……私たちを茶化すつもりなら帰ってほしい」
頼んでもいないのに続けて口を開くダンにそれなりの権幕で眼を見つめられたぼくは、さすがに焦った。口ごもるしかなかった。
「い、いや、そんなつもりは……」
シンシアと名乗る、やけに落ち着いた感じの参加者が、なだめるように口を開く。
「リラックスすればいいのよ。ほんとの悩みを言えばいいの」
ほんとの悩み? ぼく一人だけがPVウイルスに気づいて孤独に戦っていることか? それを言えばいいのか? 感染者の前でそんなこと言えるわけがない。
「あなたはそうやって敢えてズレた答えをすることで、自己を守っているの。周囲が当たり前のように自己を棄てているように見えるんでしょ? 周りが軸のない薄っぺらい人間に見えるんでしょ? わたしがそうだったから分かるわ」
何かを揺さぶられている気がして適当に目をそらす。すると、一人の男と目が合った。
円形に並んだ椅子の、対角線上に座っている男がこちらを見つめている。他の参加者たちとは違う、妙な表情をしていた。ぼくを試しているような目つきだった。この人は何だ? 何か、ものすごく興味を惹かれる。この男はいったい――
「null坊くん、聞いてる?」
シンシアの声に、ふと我に返る。
「でも逆なのよ、null坊くん。自己が希薄なのはあなたなのよ。自己が希薄だから、そうやって守ろうとする。何も怖くはないのよ。自分の心情を吐露すればいいのよ」
再び男の方を見ると、彼はもう俯いていた。
「心情を、打ち明ければいいのよ」
ぼくはただ沈黙するしかない。
「いいのよ。焦らなくてもいいのよ」
「でも、みなさんすでに打ち解けてる感じだし、ぼくが急に悩みとか言っても……」
「少しずつ歩いていけばいいのよ。あなたのペースで」
再び周囲は沈黙に包まれる。早く帰りたい。
司会役が沈黙を破る。
「ありがとう。シンシア。君の言うとおりだよ。null坊、君が悩みを言いたくなるまでみんな待っているよ」
うん、そうだそうだ、待ってあげよう、と周囲もそれに同意する。
確かにそうかもしれない。この女の人は優しそうだし、初めて会った人だから、ぼくを貶める必要もない。この人になら、言えるかもしれない。よし、言ってみよう。
「じゃあ――」
と口を開きかけたそのとき、ポケットに手が触れる。しなびたナス(イルカの野菜版)の妙な手触りがする。
ぼくは正気に戻る。危うくテンプレに陥るところだった。PVウイルスはこうやって重症患者を増やしているのか! 巧みな話術と寄り添いの姿勢だ。その実、芯などくっていない。テンプレの寄り添いがあるだけだ。自動的に駆動する寄り添い。それが分かっただけでも今回の敵情視察は無駄じゃなかった。
それにしてもかわいそうな人たちだ。この人たちに自由意志なんてない。完全にPVウイルスに侵されている。残念だが、レベル5だろう。このままここにいるとぼくも重症化する恐れがある。ここらで自らにワクチンを投与することにした。たぶん手遅れだとは思うけど、一応この人たちのためにも強烈なやつをお見舞いしよう。
「はあ――じゃあ、言いますね。ぼくの悩み。人生がシンプルになって7年ほど経つんですけど、あるときふとした瞬間に、胸が肥大化し始めた結果、1つの大きなこぶにちっちゃい点々が2つあるみたいな感じになる、みたいな? あるじゃないですか」
「はい? なに? 何ですか?」
構わず続けよう。
「てかさぁ、アリの巣穴にメスブタを詰める日特有の陰気な空と歌舞伎が嫌いです、と、チクタクマンは言った」
これがぼくの真骨頂だ。こうやってちぐはぐな内容をしゃべることがPVウイルスに効果的に機能する。
まずは沈黙が訪れる。ワクチン投与が効いている証拠だ。しかし、しばらくして、周囲から戸惑いと怒号、それから嘆きの声が聞こえてくる。それでも続ける必要がある。
「すいません、悩みを言いますね。睡眠中に剥がれ落ちた皮膚の断片や漏れ出したうんこの破片を掻き分けながら部屋の隅まで移動するじゃないですか、でもそういう時に、構成要素がわからない奇妙な色をした山々にたかる蝿の集団が描く軌道は、昔の漫画でよく見るたんこぶの周りをまわる星々みたいになりますよね? 僕はそれをかつて美しいと思ったことがあるんですが――」
「あー駄目だこの人。もういい、出ていってもらいましょう」
司会役がそう発した直後、周りの参加者に羽交い絞めにされたぼくは、強制的に扉へと連れていかれ、数秒後には冷たい外気にさらされることとなった。ぼくはすべてを言い終わる前に排除されてしまった。
やはり、ぼくは正しいのだ。
*
「落としましたよ」
グループワーク会場の中央体育館第3ホールを退室した(厳密には退出させられた)ぼくを呼び止める声があった。
振り返ると、妙にエネルギッシュな眼光を持つ、陰気な男が立っていた。さっき会場で目が合った男だ。
「あれ、あなた、さっきの……会場にいた……」
「ああ、一応参加者ってことになってるけど。まあ、そういうのはどうでもいいよ。それより、これ」
男はぼくのポケットから落ちた「落とし物」を差し出してきた。
ナスは今でもしっかり持っているし、まったくもって身に覚えがない。
「それ、ぼくのじゃないですけど」
「間違いなく君のだと言われているよ、そういう説があるよ。とりあえず、先に返しておきます。以上、返上」
彼は言い切って、ぼくの手にそれを握らせた。封の開かれた小汚い茶封筒だった。中には何やらしわくちゃの紙が入っていて、それはぼくが748分後に言う予定の謝罪文らしい。意味不明だった。そう、ナンセンスなのだ。
【null坊が748分後に言う謝罪文】 この度は、私の兄の弟が、たった6畳ほどの狭い空間に38人もの人間が働いているから、どう頑張っても立ち仕事になってしまった件について謝罪します。 さらにこの世界は著しく低気圧だったため、私は喉を膨らませるほかありませんでした。重ねてお詫び申し上げます。 割れた殻の周りで途方にくれながら泣いている人々に思いつめるのが好きであることを再確認してしまい、申し訳ありませんでした。 以上、謝罪とさせていただきます。(……と、言いつつ……)
「あなた何者です?」
「ぼくは手毛林ではない人の役を演じない役を演じない人のふりをしています」
「つまり?」
「つまり、まだ正常です」
彼は同志かもしれない。