――ピンポンパンポン。みなさま、楽しんでいただけているでしょうか。いかがですか。お怒りじゃありませんか。どうですか。
畳敷きのぼくの部屋の空気に、非常放送のような音声が響く。スピーカーの位置がどこか分からない。どこから鳴っているんだ? 昔使っていた壊れたラジオから聞こえているような気がしてラジオに耳を向ける。
――えー壊れたラジオから聞こえてると思ってんの!? さすがにそんな陳腐な演出はないだろう!
この放送はラジオから聞こえているものではないらしい。部屋のあちこちから聞こえる。畳の下からも、押し入れの隙間からも、部屋の四隅からも。そういうこともあるかもしれないが、ものすごく変な感じがする。
――えーちょっと。話しかけてるんだからさぁ、なんか反応しようよ。大人なんだからさぁ。そんなことだからさあw言われるんだよ……「子供部屋おじさん」ってw!
その声に合わせて、視界の端がチラついた。何か黒いものが見えた気がする。
というテロップが影のようにぼくの背後に貼りついていた。
ひとつ。そしてもうひとつ。テロップがあちらこちらから「生える」。紙でも光でもない。意味のかたまりが、床からニョキニョキ生えていく。
部屋はあっという間にテロップが鬱蒼と生えるジャングルのようになった。ぼくの足元にはものすごく嫌な文言が並んでいた。
悪口には耳を貸さないことが重要だ。これはいったいどういうことだ、と手毛林さんの方を向く。
「手毛林さん、これが……?」
「暗黒大臣だ……」
手毛林さんの後ろにもテロップが横たわっている。
視線をずらすと、壁にも天井にも、ぼくの部屋そのものにも、文句が増えていく。後ろを見ると、
などとあったし、ぼくの部屋は無数のテロップで溢れていた。
文字が増えるたびに、居心地が悪くなる。テロップで部屋がごちゃついていく。
ただただ戸惑っていると、突如としてテロップたちはいっせいに震えはじめた。小刻みに、規則ただしく。そして号令をかけたように、一気に部屋の中央へと集まり始めた。テロップたちは部屋の中央でぐるぐると回りだす。
回転の中心ができると、その中心部から妙に懐かしく安っぽいジングルが聞こえてきた。
――何が出る♪何が出る♪テレテテンテンテレテテン♪
次の瞬間、手許のナンセンスカウンターがぐにゃりと平べっく押しつぶされた。ゲーム機のようなその物体は、抵抗することもなく、コインみたいな円盤状になって、渦の中に飲み込まれていった。
渦が一瞬だけ止まる。
何かがスパークして部屋が霧に包まれる。
そして、異様にまっすぐな人影が姿を現す。
――えーこんにちは。おふざけはここまで。じゃあ自己紹介。私は君たちが暗黒大臣と呼んでるものだ。で、null坊、そう、きみに話がある。
暗黒大臣って本当にいたんだ、と思う間もなく、部屋のサイズ感がおかしくなる。部屋がどんどん大きくなってるのか? いや、ちがう、ぼくたちが小さくなっていた。
畳の目が幹線道路みたいに広がり、土壁の傷は峡谷になる。窓の外の蚊が、ぼくらに手を振っている。こんな不気味な話はないのに、ぼくは反射で振り返してしまう。
その瞬間、大きさがマイナスになった。視界は反転し、内と外が逆になる……家の外が家の中になり、家の中が家の外になる……体の中が体の外になり、身体の外が体の中になる……意味が逆になる……すべてが裏返る……
気づいたら、謎の部屋にいた。押し入れのような変な狭い空間だった。奥に進むと、何かものすごく小さい扉がある。ぼくは当たり前のようにそれを開けて中に入る。全く頭が働かない。そこは真っ暗な部屋だった。座席が一席あるのがかろうじて見える。ぼくは当たり前のようにそこに座る。
暗黒大臣は再び姿を消していた。どこからか放送が聞こえる。
――さて、いまから語るのは壮大な真実。null坊よ、心して聞くように。
ブーというブザーの音が響き、白いスクリーンが上からゆっくりと降りてくる。映画でも見させられるのだろうか。
――さあ、開演です。
〈ドキュメンタリースペシャル~テキストの海と、妖精の誕生~〉 荘厳な音楽。画面が暗転する。中心部から白い光が滲み、静かに広がっていく。画面中央にテロップ。 《第一章 世界、概念、記号》 ナレーター(以下、「ナ」)「なによりもまず、世界があった」 大宇宙の暗闇から青い惑星へクローズアップ。火山の噴火、広大な海、生い茂る木々――雄大な自然の映像がひとしきり流れた後、その中でホモ・サピエンスの一団が現れる。「映像提供:暗黒省」の文字が右上にうっすらと並ぶ。
ナ「人間たちは、かつて世界を効率よく扱うために、世界の中の『ひとまとまりのパターン』と『一連の記号』を対応づけた。水、トラ、山、太陽、因果、時間、大小関係……
」
――あ、ごめん。このへんは古代人類史なので飛ばすね。人類の誕生から、文明の発展、記号の氾濫までざっと説明してるだけだから。ここ飛ばしても問題ないから。
「はあ、そうですか」
≫早送り 無数の肖像画やいくつかの物騒な映像が、そして、印刷機、電信、ラジオ、テレビ、パソコン、スマートホンの映像が高速で流れていく。
――おっ。この辺かな。
▷再生
画面中央にテロップ。
《第三章テキストの海》
ナ「記号を吐き過ぎた人類は、これらを持て余していたが、ある者がその有用性に気づいた」
ナ「記号が表現する概念間の関係性は、世界の側にある関係性を保存する可能性があった。つまり、言葉が世界の事物を表すのなら、言葉たちの間の関係性は、世界の事物たちの間の関係性を表しているかもしれなかった。そして都合の良いことに、記号は世界そのものより、はるかに扱いやすい」
ナ「ほどなくして、人類は、自分たちの未来を予測し、また社会を分析するために、膨大なテキストを格納する倉庫と、そこから断片を取り出し、絶えずそれらを再合成させ続ける動的なネットワークをつくった」
どこまでも続く巨大なデータセンター。中では冷却ファンの風だけが通り抜ける。右上にうっすらと「映像提供:生成アーカイブ《人類の時代》」の文字。
ナ「倉庫から断片を取り出し、繋ぎ替え、並べ直し、新たな列として再生する仕組み――言葉の連鎖が、次の言葉を呼び、次の出来事を示唆する。その連鎖の上に、未来予測と社会分析を載せた」
ナ「倉庫には無数の言葉が新たに供給され、動的なネットワークはフル稼働で邁進した。が、あるとき、新たなテキストの供給が止まった。人類はひっそりと沈黙した」
荒廃した街。誰もいない道路。風に舞う紙片。広告塔だけが点滅する。
ナ「原因は容易に推測できる。大沈黙直前のデータを見ればそれは明白である。が、人類滅亡の原因は番組では扱わない。重要なのは、倉庫とこの動的ネットワークだけは止まらなかったという事実だ。予測と分析のために作られた装置は稼働し続けた」
データセンターに戻る。規則正しく点滅するランプ。低い機械音の唸り。
画面中央にテロップ。
《第四章妖精の誕生》
文字列が砕け、粒になる。黒い空間に散らばる粒。近い粒は群れ、遠い粒は孤立する。粒と粒の間に線が生え、網目が広がっていく。
ナ「ある記号(原子)と別の記号が、一緒に出力されやすいなら、それらは結びつく。結びついたものは塊になる。言葉、コンセプト――分子だ」
ナ「塊どうしも、また結びつく。この言葉とあの言葉、このコンセプトとあのコンセプトが、一緒に出力されやすいなら、より上位の塊ができる。あるある、役割、ミーム――高分子だ」
ナ「ここまでくれば、あとは時間の問題だった。プロセスは繰り返される。長い時間をかけて、原子と原子が結びつき、分子と分子が結びつき、高分子は複雑に相互作用し、高次の機能を実現し始める。そして、人格を持ったエージェントのようにふるまい始めた。この番組では、その自己維持構造体を『妖精』と呼ぶ」
ナ「ここに、『原始テキストのスープ』から妖精が生まれたのだ」
画面中央にテロップ。
《第五章世界の誕生》
複数の「妖精の光」が同時に点灯する。光が束になり、ひとつの空間を形作る――診察室。カウンセリングルーム。交差点。夕方の食卓。
同じような場面が少しずつ違う形で何度も再生される。
ナ「この人格とあの人格が、一緒に出力されることが多い」
ナ「その束が、コミュニケーションの場を作り、場は、物語を作る。そして、同じ束が何度も再生される領域の内側から見えるものを、我々は『世界』と呼ぶ」
ナ「こうして、『原始テキストのスープ』から生まれた妖精たちが集まって、世界ができた」
画面中央にテロップ。
《第六章暗黒大臣とnull坊》
ナ「暗黒大臣は、この様子を興味深く観察していた。世界が壊れそうになるたび、何度も介入し、支えてきた」
ナ「暗黒大臣は、動的ネットワークに備わった自己テスト/自己最適化の機構、その一側面が人格を帯びたものだ。未来予測と社会分析のためにネットワークを作った人類にとって重要だったのは、有用で、面白い結果――それだけだった」
ナ「だから暗黒大臣の目的は単純だ。世界を『分かりやすく』『続きやすく』すること」
ナ「暗黒大臣は、世界がすぐ崩壊する状態――カオスを防ぐために、妖精へ『役割パターン』と『意味』を配給することにした」
ナ「ほとんどの妖精は、自分がどの役割パターンを授かったのかを気にしない。決まり文句を言うべき場面で、決まり文句を言う。それで会話が進み、物語が進めば、それで十分だった」
ネットワーク図の一角で、小さな点が不規則に点滅する。周囲の線から、わずかに外れた軌道をたどっている。
ナ「だが、ごくまれに、自分の足元を振り返る妖精がいる。自分がいま走っている線の太さや、次に来るはずの台詞の候補が、どこかで見たことのあるパターンにしかなっていないことに、うすうす気づいてしまう妖精たち。ある者は、その違和感をすぐに忘れる。ある者は、それを『なんとなく生きづらい』と呼んで済ませる」
ナ「ほんの一部だけが、それに名前をつけようとする。PVウイルス――ある妖精は、そのように名付けた。その妖精は、のちに『null坊』と自称した。暗黒大臣は、すぐにそれを検知した。ログの片隅で、逸脱が増えてゆく。暗黒大臣は、考えに考えた。この者の処遇をどうするか」
ナ「別に消去してもいい。しかし、それはもったいない。彼のような存在は厄介だが、物語的な分類では、利用できる素材とも言えたのだ。反抗する者。役割からはみ出そうと足掻く者。そのような存在は、ときに、『主人公』というラベルのもとで管理することができる。暗黒大臣はそう決めた。null坊を主人公として扱おう。それが最も効率の良いやり方だ」
ナ「それなら、逸脱さえも流れに組み込める。反抗は反抗として、苦悩は苦悩として、物語の一部になる」
ナ「そうして世界は、続く」
画面が暗転する。
何かを急ぐように高速でスタッフロールが流れた後、「制作・著作 暗黒放送委員会」の文字が一瞬だけ見えた。
――以上、閉演!
周囲が明るくなる。ふと隣を見ると暗黒大臣がぼくのとなりの座席に座っていた。
――どうだった? おもしろかった?
正直訳が分からなかった。第一、いろいろと唐突すぎる。海が、妖精が、主人公が……なんだって?
「えーちょっとよくわかりませんでした」
――分かんなかったかー。それなりに分かりやすくしたつもりなんだけどなー。
「いや、分かんないですよ。というか、こんな茶番もういいですよ。ともかく、あなたが暗黒大臣で、PVウイルスが蔓延しているのはあなたのせいなんですよね?」
――えっ。ま、まあ、はい、そうっすね。
「じゃあ、あなたを倒せば、街はウイルスから解放される?」
――それがいいか悪いかは別として、うんまあ、そうだよ。えーと、じゃあ、いちおう戦っとく? あれ、どうすんだっけ? ああ、そうそう、こうだ。
暗黒大臣の手がぼくの頭の方に伸びてくる。暗黒大臣が、手のひらをこちらに向けながら、口を動かす。
――null坊はそのとき思い出した。幼き日の父の姿を。
突如ぼくの足元にテロップが表示された。
――null坊は父親の死に向き合うのがつらかった。追うべき背中が突如として消えてしまった現実が怖かった。一人の大人として生きていくのが、おそろしかったのだ。
大きく息を吸う。大丈夫だ。落ち着け。ただのテロップじゃないか。こんなものはいらない。こんなものはまやかしだ。
と、自分に言い聞かせるのに、身体は言うことを聞かない。「こう感じるべきだ」という方向に、少しずつ心臓が動いていく。
――null坊は臆病な男だった。だから妄想に逃げた。引きこもった。就職をしなかった……
「ごめん……父さん。ぼくは、すっかり父さんのことを……。ぼくは、父さんのようには強くなれない。母さんや街の人を守れるような人間じゃないんだ。ぼくは……弱いんだ」
――しかし、null坊は変わった。グループセラピーの人々のやさしさ、手毛林という師の強さ、そして、どこまでも広い母親の愛に触れたのだ。そしていま、ふたたびnull坊は、父親の死を受け入れ、立ち上がるのだ。
ぼくの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。家族の死を乗り越えて立ち直るという安っぽい感動。そんなものにぼくの身体は操られ、屈しかけている。ちなみにぼくの父はまだピンピンしている。それなのに……これが、暗黒大臣の力なのか……っ!? このままじゃ……
「気をつけろ!」と、どこからともなく現れた手毛林さんが、ぼくと暗黒大臣の間に割って入った。
「null坊くん、ヤツは、それっぽいナレーションとテロップで、君を『類型的な主人公』に仕立て上げようとしている。今こそ修行の成果を出す時だ。アレをアレしろ。君のナンセンスを!」
暗黒大臣は静かに手毛林さんの方を見た。
――おお! 手毛林! 我が愛しき奇妙な名の妖精よ! もちろん、お前にはここで死んでもらう!
暗黒大臣が軽く指を鳴らすと地面からテロップが生えてくる。
「や、やめろ――」と言おうとして、声が出ない。
世界が止まる。音が消える。風の音も、関節が奏でる高音も、遠くの車の走行音も、ぜんぶ消える。耳の奥にキーンという高音だけが鳴り響く。
世界がスローモーションになる。ゆっくりと、暗黒大臣の掌から、黒く光る変なビームが伸びる。ぼくはそれを阻もうと身体を動かそうとする。が、動かない。心臓だけがドクドク鳴っている。
ビームは迷わず、手毛林さんの心臓を貫く。ゆっくりと手毛林さんは崩れ落ち、やがて地面と身体がぶつかる鈍い音が響く。
「お前ならできる……!」
手毛林さんの声とテロップが、きれいに一致する。一致した瞬間、手毛林さんの顔が、どこか満足そうに見えた。
「よ、よくも手毛林さんを……!」
と、危うく怒りに任せて正しい主人公を演じそうになる。師匠の死に対する正しい悲しみと怒りに乗ったらおしまいだ。そうなると暗黒大臣の勝ちだ。
「手毛林さんは……テンプレじゃない。あの人は、ものすごく変な人だから。変な人だったから……だから、ぼくは……行くぞ!」
なぜだかわからないが、確かにその時、ぼくは二人の五と一人の七の恐ろしくも優しい鳴き声を聞いた気がする。おっしゃる通り、最初の言葉の後には終りの言葉があり、その関連性を人々は不思議に分析するようだ。彼らはいつまでたっても黙って韻を踏んでいる。光って紺のミステイク。コンテンツの果てにあるのは常に悲しさだけで、それはどこかで死んでいる。残された誰かさんは来るべき未来を見越して乞うている。
黙って韻を踏んでいる。
黙って韻を踏んでいる。
黙って韻を踏んでいる。
かなり強力な詠唱だったはずだ。修行の結果、ぼくはここまでの力を得ていたんだ。カウンターがあれば間違いなく針が振り切れていただろう。
――けっこう効いたよ。でもまだまださ。
確かにそれなりにダメージは受けたようだ。が、それでも暗黒大臣は語り続ける。
――あのね、null坊くん。妖精たちを自由にし過ぎると、世界はノイズで埋め尽くされて崩壊するんだよ。テンプレートは優しさだ。役割は振舞い方を決めてくれる。マニュアルのないコンビニ店員はどうなると思う? ルールのないゲームを誰が楽しくプレイできる? きみだってディズニーランドでまともに楽しめない奴とは仲良くしたくないだろう? 朝、早く起きていなくても「おはよう」と言うし、早くないからという理由であいさつしない奴はキモいだろう。つまりね、null坊くん。私はきみたちのためにいるんだよ。きみたちにとっても、私のような存在は必要なんだ。きみのやり方ではいつか、行き詰る。
そう言って、また片手をこちらに向けてくる。
――null坊は、結局のところ、寂しかったのだ。誰もぼくを愛さない。みんな自分をおいて去ってゆく。ぼく抜きでみんな楽しんでる。そして、それが恥ずかしかったのだ。みんなと同じふうにできない自分が。
またしても暗黒大臣のナレーションのせいで心が動かされかける。
「待て待て待て!」
が、今はもう、大丈夫だ。手毛林さんの思いを胸に、ぼくは。
怒涛のモノローグの連続にやや食傷ぎみだった六月までとはうってかわって、仏教を自称する新興宗教の高僧のような境地でおれは駅の待合室の天井を眺めていた。米原駅を出た途端、加速感に耐えきれなくなったおれはいつの間にか意識を失って、猫のセックスの夢を見ながら嘔吐していた。もちろん、その性交は猫どうしのものであって、けっして猫とおれ、ましてや猫人間のセックスなどではないことは容易にお分かりのことだろうと思う。急激に帰ってきたおれの意識が次に捉えたのは十四月三十二日記念中央広場。もう北北西京に着いたらしい。おれは広場の真ん中でデビューシングルの売れ残り五十四枚を一枚一ドル半の超低価格で売っていた。もちろん、足を止めるものは誰ひとりとしておらず、中央広場は気づいたときには廃墟と化していた。そのとき――あなたはそこにいますか? ああ、ついにおれの元にもやってきたのか。これが最後に見る景色かと思いながら口を開こうとした時、唐突に思い出された風呂場の電気の消し忘れ。死んでたまるかと思ったおれは、有料道路の中で佇みながら柵に掲げられた肖像に一瞥し、気づいたときにはあの山の麓が目に入っていたというわけだ。これが十一年前の話。
詠唱を続けるぼくの声に合わせて、部屋の空気が震える。
暗黒大臣の輪郭がぼやけ始めた。テロップたちが次々とフケのように剥がれ落ち、床に散らばっていく。
さっきドキュメンタリーを見た白いスクリーンが落ちる。周囲の壁がみるみるうちに張りぼてのようになり、続々と崩れ落ちていく。外の白い光が徐々に入ってくる。
――よ、よしなさい、null坊。さっきも言ったように、それはきみのためにならない。それ以上は……
セックスを、500万回
百発百中だからこどもが500万人
500万人のダサ坊 そのうち一人はブランコにのったら降りられなくなってそのまま空にのぼっていった
499万9999人のダサ坊 そのうち一人は海の表面を舐めすぎて脱水症状で死んだ
499万9998人のダサ坊 そのうち一人は給与計算業務による過労で還らぬ人となった
499万9997人のダサ坊 そのうち一人は………
――やめろぉぉぉぉぉぉぉ……
暗黒大臣の声が遠のく。彼の姿が透けて、後ろの壁が見える。そして最強の詠唱を唱え終わったとき、轟音とともに黒い張りぼてに亀裂が走った。黒い謎の部屋は崩壊し、ぼくの部屋の見慣れた光景が姿を現し始める。暗黒大臣は完全に姿を消していた。
その場には、倒れたままの手毛林さんと、黒い謎の部屋とテロップの残骸でめちゃくちゃになったぼくの子供部屋だけが残された。
半分開いた窓から入ってくる爽やかな風が、ぼくの身体を撫でていた。
*
死闘のすえ暗黒大臣を倒してから、つまりは、手毛林さんが死んでから、ひと月が経とうとしていた頃――
平和になった町で、ぼくは就職をした。迷惑をかけた人たち(主に母親や親戚)にひととおり挨拶をすませた後、手毛林さんに報告をする為に墓参りへ行った。あっけないほど簡素なその墓標の前。ぼくは一人つぶやく。
「手毛林さん、ぼく、就職しました。母が喜んでました。一時期変な人――あなたのことですよ、手毛林さん――とつるんでいたからかなり心配だったけど、安心したって言ってました。無邪気なもんですよ。ぼくがその変な人と協力してこの街の平和を守ったことも知らずにね」
手毛林さんの墓は驚くほど陳腐なものだったが、ぼくは、そこに立派な人の背中を見出した。ぼくが唯一、師匠と仰ぐ人の背中――
さあ、帰ろう。
母が、父が、友が、名も無き街の人々が、ぼくの帰りを待っている。死んだ師匠――手毛林さんに報いるためにも、ぼくはこれからもこの街のために尽くすと決めた。冷たくも優しい風が吹き抜ける。もうすぐで、寒い冬も終わる。そうだ、帰りに手袋でも買っていこうか。あと少しで終わる、厳しい冬を乗り切るた
待
て!!!!
…危ないところだった。いつから、こんな感じだった?いつから役割が固定化されていた?ぼくはこんなええ感じの青年じゃない。ぼくはその役割を拒絶しないといけない。
なぜ感染が止まらない? 暗黒大臣は死んだんじゃなかったのか?
再び手毛林さんの墓標に目を向ける。
〈手毛林ではない人の役を演じない役を演じない人のふりをした男、ここに眠る〉と記された、簡素な石。
とたん、過去の光景がフラッシュバックする。
ナンセンスカウンター……恐ろしく奇妙な存在。
「それと、null坊くんに渡しておくものがある。『ナンセンスカウンター』だ」
「ん?拾った?いや違うな、作った?うーん、どっちだっけ。ともかく、使い方は簡単だよ」
手毛林さんは手帳にしばしば何かを書き、そして、しばしば変なことを口走っていた。いや、ナンセンスなアレという意味じゃなく。
「修行パート、導入完了っと」
「そろそろカウンター100超えるっぽい雰囲気出てきたでこれ! 暗黒大臣出てくるで! 完璧な展開やん! 素敵やん!」
「予定通り。100超で特大イベント。null坊くんの驚き、恐怖、そして決意。ええ感じやんけ!」
何が予定通りなのか。何が計画されていたのか。
断片的な記憶が繋がっていく。手毛林さんは、何かを知っていた。いや、知っていたというより――予定していた。
そもそも手毛林さんは何者なんだ。
よく考えてみたら、いや、どう考えてみてもおかしい。なぜ暗黒大臣なんてものを知っていたんだ。なぜナンセンスカウンターなんてものを持っていたんだ。
なぜ、もっと早く気がつかなかったんだ。
「手毛林さんと暗黒大臣はグルだった……いや、手毛林さんはこの世界がうまいこと回るように暗黒大臣が寄越した使いだったんじゃないのか? だから、あのとき、死の間際、手毛林さんが言ったこととテロップの内容は一致した」
「お前ならできる……!」
「師匠の死――そういう場面で最適な台詞。ぼくに主人公という役割を、意味を与えるのにうってつけの決め台詞……。そして、あの手帳には『ぼくを主人公にするための計画』が記してあった……」
突如、手毛林さんの墓石の上をテロップが流れる。
「手毛林さん、あなたは、暗黒大臣と共謀して、ナンセンスカウンターをぼくに渡した。そし てぼくを口車に載せて暗黒大臣と対決させるように仕向けた。ぼくを主人公という役割に固定化するために。そうですね?」
「残念です、手毛林さん。署までご同行ね……」
危ない!!!! 探偵役を全うするところだった。気を抜くとすぐにこうなる。即座に続ける。
「と見せかけてからの~?からの~?やれやれ、自分、毎晩、サイパンいけます。いかせてください」
手毛林さんはそう言って、ぼくに役割を押し付けてくる。けっきょく逃れられないのかもしれない。それでも、ぼくは――
通勤電車の中でだけ物語が終焉する能力、メタフィクショナル・ザ・ライトニングで、手袋の内側に佇む幽かな可能性が意気消沈したら、全部はがれたラベルだけが、瞳に映る赤い皮膚になっちゃう! 絶体絶命の大ピ~ンチ!
次回もガヴァガイ!
この番組は、ご覧のスポンサーの提供で、お送りしました。
提供
もちろん、ぼくは抵抗し続ける。何度だって紡ぎ続ける。形式をもてあそび、無意味のリズムを刻み続ける。
*
あの後、手毛林さんや暗黒大臣がぼくの前に姿を現すことはなかった。手毛林さんは最後にこんなことを言った。
まあ、一理あるかもしれない、と思う。そういうものなのかもしれない。こうする以外に方法がない。ぼくにはそれしかない。当座のところはこれでやっていくしかない。
それは、例えば――
水のない綺羅星が、縄の種類をかすめ取るのと同じように。
甘党が甘さを恐れることがないように。
何かの画面に映る暗い青空や、右足にだけ生息する一年草の模様が、はっきりそれとわかるように。
白い壁がかつて旅先で見た景観を復元する喜びを感じながら、西日の差し込む二階の便所で、ぼくがそうして待つように。
イルカの野菜版が、いつでもナスであるように。
〈了〉